13.1.16

ENGLISH TRANSLATION OF VIGGO BONDI’S SPEECH [a-ha.com unofficial translation]

http://a-ha.com/fan-area/fan-corner/english-translation-of-viggo-bondis-speech/

Viggo Bondi(ヴィッゴ・ボンディ)のスピーチ翻訳


# I guess the team for the official Japanese translation on a-ha.com are not so interested in a-ha...?  I don't want to disturb them but I just want to share something interesting to Japanese fans... ;-)
This is the speech at St. Olavs orden in 2012.

(a-ha.comの日本語版、何年たっても全部は訳してくれないようなので、勝手に訳したい所だけ訳させていただきます。で、2016年第一弾?は、前からやりたかったコレ。新しい記事ではないんですけど、面白かったので掘り返します…芋ではありませんがw
これは、2012年にa-haが聖オーラヴ勲章を受勲した際の、元BridgesベーシストのViggoのスピーチです。字だけだとつまらないので、写真も入れました)


2012年11月13日 CATHERINE 投稿

英訳:Sabine Clement & Cindy Kandolf

「1977年の秋、AskerのVollenで、僕はベースギターを持ってバスを降りました。それが僕とマグネとポールの初めての出会いでした。ああ、びっくり。何なんだ?カーニヴァル?二人の髪の長い少年が…いや、女の子か…? ジミヘンみたいな恰好で、シルクの花柄シャツ、ベルボトムのパンツ、モカシンを履いて、長いスカーフに、ハンカチーフ。あり得ない。僕は60年代に戻されたのです。」


「でも、僕がこの二人に引き寄せられた理由が二つありました。宿題と、夢です。」

「ハイスクールの頃、僕らがやっていた唯一の宿題は、自分達に課していたものだけでした。正確には、マグネとポールが、お互いに課していたものでした。練習のたびに新曲を持ってくること。結果として、沢山の曲が生まれました。『True for Love』、『The Endless Brigade』なんていう曲です。曲のリストはとてつもなく長くなりました。夢についての曲。のちにa-haとなる音楽の土台です。」

「バンドの陰には、いつだって女性がいます。Lise(マグネの母親)です。4年の間、毎週4回のリハーサルがあり、3人の10代の少年は、家に入って行っただけではなく、彼女の冷蔵庫にも侵入しました(笑)。彼女には自分の子供が4人いました。僕らにはそんなに多くの義務はありませんでしたが、そのうちの最初の一つとして、4分の1ヘクタールほどのジャガイモ畑に行かされました。」

「Liseは教師でしたが、彼女は僕らが宿題を済ませたかどうか質問はしませんでした。まるで何か大きなことが始まっているのを知っているかのようでした。」

「ポールについて話をしましょう。彼は素晴らしいソングライターです。彼は音楽をやっている時が何よりも幸せな人間です。アーティストは自分のアートをしている時が一番幸せなんです。だから、ポールが芋堀りが下手くそだとしても驚くには値しません。」(笑)

「僕たちの一番重要なコンサートは、1979年にAsker Gymnasium(高校)でありました。もちろん、後にa-haがロイヤル・アルバート・ホールで何度も演奏したり、リオのマラカナン・スタジアムで198,000人の前で、その人数は僕が知る限り世界記録だったと思いますが、演奏するなんてことは、その頃には知る由もありません。」

「コンサートに行く途中、マグネの義理の父のTerje Noklebyが、その前の週末のジャム・セッションのテープをかけました。それは、ひどかったんです。僕らはショックを受けました。僕らは本当はこんなにひどかったんだっけ?僕らはそんなふうにライヴは出来ませんでした。僕らにとって最高のコンサートになったのです。本当の事なんですけど、ポールはパフォーマンスの間ほとんどオーディエンスに背を向けていました。」(笑)

「でも、もっと重要なことに、ホールのオーディエンスの中に、モートン・ハルケットが居たのです。後に、彼は初めてブリッジズのライヴを聞いた時のことを説明しようとしました。でも無理でした。」

「1980年2月、Knuslabruにて(*)。 何度か友達や家族や知り合いやお客さんに向けて演奏した後、マグネとポールは、レコードを作るのが次のステップだという結論に達しました。その頃、僕らは17、8になっていました。時間が経つのは早いものです。僕らは成長しなくてはなりませんでした。マグネは自分のレーベルでシングルを出していましたが、僕らのうち誰もLPは出していませんでした。その週末、僕らは、後にファースト・アルバムとなった初めてのレコーディングをしたのです。」

「モートンはオーディションで参加しようとしていました。僕の家にやってきて、ぎこちない様子でAsker高校で僕らの演奏を聞いたことと、バンドに興味があるっていうことを言いました。彼は、僕にも、バンドの他のメンバーにも、大した印象は与えませんでした。信じてください。今でも僕が思ったことを覚えています。『彼は自分が何者だって思っているんだろう?』」

「時にポールとマグネの天才っぷりは、手に負えませんでした。例えば、彼らは、僕らのファースト・アルバムを、2面ではなく3面にしようと決めたのです。片面の途中に、再生が止まる溝を切って。1980年にCDがなくて良かったです。うまくいかなかったでしょうからね。とても頭がいいけれど、ちっとも実用的じゃありません。多分、アルバムを持っている少ない人数のうちの多くが、最後の2曲を聞いたことがなかったんじゃないでしょうか。」

「オスロのStorgateにあるクラブDovrehallenで、1980年の春のことでした。二つのバンドが演奏することになっていました。Kjøtt(「肉」という意味)のパンク・バンドと、ブリッジズでした。パンクス達はブリッジズの音楽でワルツを踊っていました。僕らはそれを抗議とは受け取りませんでした。」

「数日後、Ole Sørli から電話がかかって来ました。ポリドールや、他のレコード会社でも働いたことのある人物です。僕らは驚きました。レコード契約に違いありません!僕らはそう思いました。ところが、彼は二人の大きなサングラスをかけたティーンエイジの少女たちの白黒写真を二枚見せました。その二人―Dolly DeLuxeは、ちょうど彼のプロデュースでファースト・アルバムをレコーディングしたところで、彼は僕らに彼女たちのバック・バンドになる気はないかと訊ねたのです。」

「僕らは頭に来て、彼のオフィスを去りました。彼女たちのレコードを一枚もらいましたが、オフィスから道路に出た時、これはいいフリスビーになると気が付きました。」

「モートンについて話しましょう。彼はAskertunの青年クラブやAsker高校で誰も彼を知らない遠い昔からポップ・スターでした。みんな彼に、成功したから『そんな風』になったのかと訊ねますが、答えは単純です: 彼はいつでも『そんな風』だったのです。」

「1984年の秋、ロンドンで、ライオンハートという音楽出版社が、a-haの楽曲の権利を買ったところでした。契約にサインするという、その勝利の瞬間を捉えるカメラマンが必要です。私はたまたまその時ロンドンにいて、カメラも持っていました。私はあまりお金を持っておらず、マグネが私に50ポンドの仕事を提案しました。さらに重要だったのは、彼らは僕に現金で払ってくれたのです。その夜のうちに全部飲んで使ってしまいましたが。」

「1985年の10月9日、真夜中に電話が鳴りました。マグネからで、ロンドンからの遠距離電話のつながりはひどいものでした。『ヴィッゴ、VGのTusentipps(**)にすぐ電話したほうがいい!僕たちは、アメリカで一位になったんだ…もうすぐそれが発表される!」

「最初に驚いたのは、マグネがVGに電話しろと命令したこと。その次が、ナンバー1になるって!?!?っていうことでした。」

「お金は14日後に届きましたが、翌日には『a-ha全米No.1』というのが1面を飾っていました。」

「でも、他にもう一つ言わなきゃいけないことがあります。Dagbladetにも同じ記事が載っていて、僕らは誰がそこから1000ノルウェークローネもらったのかがわからないのです! 君らのうちの誰かなんだろう?」

「マグネについて話しましょう。君が音楽とヴィジュアル・アートの両方に才能があるのは有名だけど、君が素晴らしい詩人でもあるという秘密は、守られているね。」

「80年代の、ある金曜日の朝、僕は翌日、ニーノシュク(***)で書かれた作文を提出しなくてはならなかった。僕にはバンドのリハーサルがありました。パニックです。作文が書けていない。マグネが、自分が書いた作文がたまたまそのへんにあるから、それを使っていいよと言いました。もう先生にもチェックしてもらってあるからねと。僕はそれを書き写し、提出しました。僕は―いや、むしろマグネは―6点(訳注:満点のこと)をもらいました。僕の先生のコメントは『君は詩人なのかい?』でした。そう、マグネ、君は詩人なんだよ!」

「a-haの成功のキーになった要素の一つは、a-haの才能でしょうか。3人の強いパーソナリティの合計なんです。モートン、マグネ、ポールの。」

「その他の話は、もう歴史になっていますね。」

「(マネージャーの)Sverre Flatbyが、こんなことを言いました。『a-haは最高のアルバムを出すことはないでしょう。』でも、a-haは…。いえ、僕はおとぎ話を信じています。だから、こう言いたいのです。『a-haはまだ最高のアルバムを作っていないのです』と。」

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(*) Knuslabruk―「小さい農場」と訳されるのが適当だろう。名前というよりは、マグネの住んでいた家のニックネームのようなものである。「bruk」は小さい農場の意味で、「knusla」は、とても小さいという意味の古めかしい言葉。そういうわけで、この単語は「とても小さい小さい農場」という意味。

(**)VGのTusentipps: VGは、ノルウェーの全国紙のタブロイド。「Tussentipps」とは、一般からのニュースのホットラインの名前である。情報が記事に値すると見なされた場合、VGは、最大1,000ノルウェー・クローネを支払ってくれる。
VGもDagbladetも、ノルウェーの全国版のタブロイド紙である。

(***)「ニーノシュク」は、ノルウェー語の二つの書き言葉のうちの一つ。オスロ地区に住む人は「ブークモール」を使う。そういうわけでViggoは実用的な作文を書かなくてはならないというだけではなく、いつも使わない文法で書かなくてはいけなかったのだ。

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このスピーチのViggoが見られる(ちょっとだけだけど)動画(22秒ぐらいのところ)




St. Olav関連の動画のプレイリスト

https://www.youtube.com/playlist?list=PLSP-sVUoP5qGnVU3etUOCGvd06HJDD0xr


受勲の時のこのブログでの記事はこちら:
http://reasonstostayindoors.blogspot.jp/2012/11/det-er-hyggelig-at-norge-gjr-dette-vg_12.html


Viggoについては、こちらもご覧ください:
http://reasonstostayindoors.blogspot.jp/2012/11/the-tale-of-stolen-tapes-ha-livecom.html

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さて、このスピーチを前から訳したかった(ポールが芋堀り下手くそってのがツボったので)ってのはありますが、何故、今、コレ!と思ったのかと言いますと・・・

ポールが、年末に、ブリッジズ時代のViggoとの写真をインスタにアップしたっていうことがひとつ(下記参照。しかしポールがかわいいなw)と、Viggoが最近またベースを弾いている(スピーチ動画の雰囲気と違って、ロッキンですw)アピールをしているということ。
(ご本人に訊いたら、最近と言っても今のバンドは12年やっているそうで^^;;)

なんか、怪しいなあ・・・と思ってしまったのでしたw

@waaktaarpalが投稿した写真 -

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