a-ha: 救出作戦
あらゆるところを探し回った(ハンティング・ハイ・アンド・ロウ)後、ポール・ワークター=サヴォイとa-haは、古い記録と録音を取り戻すことが出来た。それは最大のファンのおかげだった。
執筆:ROBERT HOFTUN GJESTAD OG ROBERT VEIÅKER JOHANSEN
アップデート: 09.SEP. 2015 12:17 発行: 29.AUG. 2015 07:37
先週、オスロにて: Vinderenの古い白い別荘の、リヴィング・ルームと広い庭の間の引き戸は大きく開け放たれている。ロボット芝刈り機が、夏の終わりの暑さの中で静かに働いている。家の中ではポール・ワークター=サヴォイが帽子をかぶったまま座っている。 あと数日でa-haのカムバック・アルバム『Cast in Steel』が発売で、あと数週間で再結成したバンドのワールド・ツアーが始まると言うのに、彼はまったくストレスを感じていないようだ。
「これを書いたのはまるで昨日のことのようだ。すべての「エッセンス」がはっきりわかるよ。あの頃起こったことすべてを思い出させてくれる:俺達は成功しようと頑張っていた。何かを実現しようとしていた。俺は無一文だった。ちょうどローレン(ワークター=サヴォイ、彼と1991年に結婚した)と出会ったばかりだった。とてもたくさんの事が同時に起こっていたんだ。」 彼は言う。
失われていた物は、彼と他のバンド・メンバー モートン・ハルケットとマグネ・フルホルメンに4年前に戻された。手帳と、歴史的な録音の15本のテープ・リール、ニュー・アルバムへの道しるべとなった忘れ去られていた歌詞がひとつ、そして、ポップ・スターになる前のa-haがどんなだったかという数知れない思い出だ。
ポール・ワークター=サヴォイは、彼がイギリスへ行って大金持ちになるという歌詞を書いた時20歳だった。 写真:個人蔵 |
【特別付録】上の写真のノートの歌詞?の翻訳:
ああ、俺はイギリスに行きたい
そして大金持ちになる
もし雨が降ったならば
バンドの名前を変える
The villains of the big beat soundみたいに
だけど問題はある、山ほど
俺達の車は小さすぎる
足りないものは多すぎる
許可だって下りてはいない
仲間たちはきっとすごいんだろう
年寄りは、俺が狂ってると思ってる
俺の人生は危険だと
俺はまだ10代
ほら見ろよ、俺にはこんなに才能がある
この物語は、バンドの最大のファンと、挫折した元マネージャーが主人公だ。
ロンドンでのミーティング
2011年6月30日火曜日、長身でスレンダーで頭を剃り上げた男がロンドンのATMを次から次へと急いでいた。彼はそれぞれの機械から最大金額を引き出し、最終的には彼のジャケットはポンド紙幣でパンパンになっていた。二児の父親は、自分の家を抵当に入れて、必要な金額を借りた。247,500ノルウェークローネ、約19,500ポンドだ。金についてはどうでもよかった。彼のミッションが達成すればちゃんと戻って来るのはわかっていたのだ。
彼はPetter-Anton (P.A.) Stenersen、高校教師だ。仕事以外の時間は、彼は最大のa-haファンの一人で、恐らく世界最大級のa-haのメモラビリアのコレクションを持っている。ウェールズの音楽史家Christopher Hopkinsと共に、彼は3冊組の3000ページのa-haの歴史の本を書き始めていた。
だが、彼とHopkinsがこの6月の朝にロンドンの上品な地域のひとつにある事務弁護士のオフィスの前に立っていた時、彼らは自分達の為に行動していたのではなかった。
Stenersenはドレス・アップしていた:アイロンかけたてのシャツ、青いブレザー。オフィスに入る前、彼は思った:「これはシュール(超現実的)だ」。 彼の手は空のスーツケースを転がしていた。ノルウェーに戻る時には、これはいっぱいになっているだろう。
残されていたバッグ
1983年から1985年の間、a-haはロンドンのランデヴー・スタジオに拠点を置き、スタジオのオーナーであるジョン・ラトクリフが彼らの最初のマネージャーになった。メンバーは本当に貧乏で、しばしばリハーサル・ルームの床で眠るほどだった。床と壁と天井にカーペットが貼ってあり、窓は無かった。眠る前にドアを閉めれば、経験したことがないほどの暗闇になった。
「やあ、あれはまるで『奈落の底』って感じだったね。」ポール・ワークター=サヴォイは笑って言う。
「俺達は、ただ貧乏だった。だいたいいつもね。そして、どんどん金が無くなって行った。ラッキーなことに俺達は三人組だったから、互いに『後押し』し合えたんだ。それにいつでも何かが起こっていた。微かな光が、あちこちにあった。だけど、二人が、1年だか1年半だかの間、『これからめちゃくちゃ忙しくなって、こんな日々が懐かしく思えるぞ』って言い続けてたのを覚えている。そんなことにはならなかった。二人は何度も繰り返した。それでも、まあ、そんなふうにはならなかったんだ。」
「お金は分け合いましたか?」
「ああ、共通の現金箱があった。でも、それは、同じ朝食シリアルを食べるっていうだけのことだった。初めてローレンに会うためにアメリカに行った時のことを覚えている。俺は30~40ドルを1ドル札で持って行ったんだ。沢山お金を持っているように見せるためにね。それに実際、その頃の俺達には大金だった。彼女は叫んだ『なあにそれ!それだけしかお金がないのに入国出来たの?』 俺達が無分別なタイプなのが良かったんだろう。何もうまくいかないなんていうことは、まったく考えもしなかった。」ソングライターでギタリストが言った。
a-haが寝泊まりしていたころのランデヴー・スタジオのオーナーであるジョン・ラトクリフは、その頃のことをこんな風に記憶している。
「私は成功したミュージシャンだったが、a-haのためにすべてを諦めたんだ。他の誰もが彼らを拒絶した。私が彼らを見つけ、ストリートから引き離した。彼らはビッグ・ヒットを飛ばす前は私の生活すべてだった。ファンなら誰もが『ハンティング・ハイ・アンド・ロウ』は私の子供だって知っている。私のおかげで、ユーロヴィジョン・ソング・コンテストでいつでもゼロ点だったノルウェーが、音楽の世界地図で場所を得たんだ。私は、あの国のGNPの上昇に貢献したし、a-haが受賞する時には政府だか王室から招待されるだろうと思った。その代わりに、新聞は、私が問題ある人物だと書き立てたんだ。」ラトクリフは不満を言う。
ジョン・ラトクリフ。a-haの最初のマネージャー。現在も音楽ビジネスにいる。 アルバム『Test of Time』とシングル「Into The Black」をリリースした。売上はアルツハイマーのサポートに使われる。 写真:個人蔵 |
彼らが成功するまでの間に、ラトクリフとa-haの関係はうまくいかなくなり、彼がバンドのマネージメントの助けに呼んだ万能のテリー・スレイターとの間はそうではなかった。ラトクリフは「スレイターの名前を『ハンティング・ハイ・アンド・ロウ』のクレジットに入れないようにするために弁護士を使う』ということを理解すべきだったのだと言う。
「テイク・オン・ミー」が3度目にヒットになった。ノルウェーで初の、そして今のところ唯一のアメリカ・ビルボード誌のチャートでのNo.1を1985年の10月9日に記録した。その後、a-haの周りでは物事が急速に動いた。
彼らが「テイク・オン・ミー」とデビュー・アルバム『ハンティング・ハイ・アンド・ロウ』のプロモートのために世界旅行に出る際、彼らは持ち物をスタジオに文字通り置いて行った。しばらく後、ジョン・ラトクリフはすべてを家に持ち帰った。
失われていた財宝
2011年の6月のその日、ロンドンでP.A. Stenersenが会おうとしていたのは、ラトクリフだった。何週もの間、彼らは、この交換についてのメールのやりとりをしていた。Stenersenはすでに貯金を送金していた。ポケットの札束は、先だっての送金への追加分で、取引の彼の分を充当するものだった:250,000ノルウェー・クローネほどだ。
Stenersenは、自分が受け取ることになっているものを見せられると、隠れていた財宝を見つけたような気分だった:15本のテープ・リールはa-haの最もクリエイティヴで多産なランデヴー時代のものだった。8トラックのテープ・レコーダー。そしてデザートとして、a-ha初期の古い手帳やノートだ。手書きの歌詞、曲の元になるであろうスケッチ、線画、覚え書きで埋め尽くされていた。それらのほとんどはポール・ワークター=サヴォイのもので、彼は紙に書かずにうまく頭の中のアイディアを形に出来なかったのだ。
2011年6月最後の日、ロンドンの弁護士のオフィスで。 左から: ジョン・ラトクリフ、Christopher Hopkins、P.A. Stenersen 写真:個人蔵 |
P.A. StenersenとChristopher Hopkinsは手帳やノート、紙類を空っぽのスーツケースに詰め、リールとテープレコーダーをその間に運び込んだ。彼らは北へ250キロ車を走らせ、マンチェスターにあるマンチェスター・スクール・オブ・サウンド・レコーディングのスタジオに到着した。Andy Popplewellが彼らを待っていた。彼はBBCで働いていたが今は古い音源から音を移すエキスパートだった。StenersenとHopkinsは、録音を安全に後世に残したかったのだ。出来るだけ早く。
翌日、P.A. Stenersenは、残りを手荷物としてノルウェーに戻った。スーツケースで送るリスクは高すぎた。帰宅すると彼はノート類を三つの山に分けたが、ワークター=サヴォイのものが一番多かった。数日後、彼は私物をマネージャーのHarald Wiikに手渡した―彼らがロンドンを去ってから26年経っていた。
「a-ha―世界に火をつけるマッチ」
Vinderenにあるポール・ワークター=サヴォイのリヴィング・ルームのあちこちに沢山のギターが点在している。二階には彼の私物のスタインウェイ・アンド・サンズの何百万もするグランド・ピアノがある。彼の妻ローレンが朝食を持って入って来て「ハイ、調子はどう?」と声をかける。
ワークター=サヴォイは微笑み、我々に1981年の手帳のページを見せる。
高校を卒業したばかりで、公営のトラムの会社、オスロのSporveienで数か月働いた頃に書いたものだと言う。
ノートにはa-haの、世界への「攻撃プラン」が書かれていて、若き日のワークターが自分自身と、ツアーではトレイラーを使うのがスマートか、それともルーフラックを使うべきかと論じ合っていた。
別のノートでは、誰か、おそらくマグネかモートンがこう書いていた:「ノルウェーからロイヤル・アルバート・ホールまで」そして「a-ha―世界に火をつけるマッチ」。そしてほとんど予言的な歌詞が、1981年12月7日のページにあって、ポール・ワークター=サヴォイはこう書いている:
ああ、俺はイギリスに行きたい
そして大金持ちになる
(中略)
年寄りは、俺が狂ってると思ってる
俺の人生は危険だと
俺はまだ10代
ほら見ろよ、俺にはこんなに才能がある
ポール・ワークター=サヴォイ、オスロの自宅にて。 背後にはギター、そして戻って来たものの一部がテーブルに。 写真: Tor Stenersen |
「俺達の野心は、16歳の頃からずっと変わらないよ。『ビッグな計画』と呼ばれるようなものをいつも用意していたんだ。もしそれが失敗しても、他の計画があった。とってあったプランは、アメリカだ。ちょっとしたパニックが含まれていたが、安全ネットが張ってあるかどうか考えたことなんてなかったね。」ワークター=サヴォイは語る。
1984年ロンドンでのノート。ポール・ワークター=サヴォイはこれを2011年に取り戻した。 写真:個人蔵 |
バンドは常に先のことを考えていた。そのために誰一人一瞬たりともランデヴー・スタジオに残して来たもののことを考えなかった。かなりの年が経つまで。
「誰かが、いくつかのアイテムがeBay(訳注:有名なネットオークション)に現れ始めていると教えてくれたんだと思う。今、手元にあるものを見ると、あちこちのページが足りない。破られている。オークション『eBay用』にね。」ソングライターでギタリストは言う。
「正確には、ラトクリフは手伝ってくれたのですか?それとも、彼は色々をまとめてくれたのですか?」
「えぇと。彼は沢山のことを片付けてくれたよ。片付けるのが上手かったし。永遠に戻らなくなったものはあるけどね。」ワークター=サヴォイは、かなりの部分が戻ったことで嬉しいのだ。
キャリア―もしくは「故郷に戻る最初の船」?
ジョン・ラトクリフはAftenpostenとのインタビューで、a-haのものは何もインターネットに出したことはないと言っているし、ワークター=サヴォイが自分の持ち物を取り戻して再結成している状態を喜んでいる。ラトクリフ曰く、彼はa-haの素晴らしさを見つけた人間なのだ。彼とバンドの協力が80年代半ばで終わったことは、未だに彼を寂しくさせており、未だに彼はあのノルウェー人達と仕事をするチャンスを欲しがっている。モートン・ハルケットの声に合った曲を数曲用意していることすら明らかにしている。
「a-haがロンドンに置いて行った物を戻すに至った経由をお話いただけますか?」
「あなたがこの件についてどれだけ集中したいのかわかりません。しかし、私が権利関係で弁護士に莫大なお金を払ったのを覚えておいていただきたい。彼らは弁護士を大勢用意していたんだ。」
「持ち物はあなたの元から無料で渡されるべきだったのでは?」
「あなたはいきさつをすべてご存知のようですね?」ラトクリフは訊ねた。彼は、質問に答える代りに自分がデビュー・アルバム『ハンティング・ハイ・アンド・ロウ』のプロダクションを、a-haのキャリアを守ったのだと言い返した。彼は、自分の努力への報酬として「ほんの少し」の金を受け取っただけなのだと思っている。
「誰かが、いくつかのアイテムがeBay(訳注:有名なネットオークション)に現れ始めていると教えてくれたんだと思う。今、手元にあるものを見ると、あちこちのページが足りない。破られている。オークション『eBay用』にね。」ソングライターでギタリストは言う。
「正確には、ラトクリフは手伝ってくれたのですか?それとも、彼は色々をまとめてくれたのですか?」
「えぇと。彼は沢山のことを片付けてくれたよ。片付けるのが上手かったし。永遠に戻らなくなったものはあるけどね。」ワークター=サヴォイは、かなりの部分が戻ったことで嬉しいのだ。
キャリア―もしくは「故郷に戻る最初の船」?
ジョン・ラトクリフはAftenpostenとのインタビューで、a-haのものは何もインターネットに出したことはないと言っているし、ワークター=サヴォイが自分の持ち物を取り戻して再結成している状態を喜んでいる。ラトクリフ曰く、彼はa-haの素晴らしさを見つけた人間なのだ。彼とバンドの協力が80年代半ばで終わったことは、未だに彼を寂しくさせており、未だに彼はあのノルウェー人達と仕事をするチャンスを欲しがっている。モートン・ハルケットの声に合った曲を数曲用意していることすら明らかにしている。
「a-haがロンドンに置いて行った物を戻すに至った経由をお話いただけますか?」
「あなたがこの件についてどれだけ集中したいのかわかりません。しかし、私が権利関係で弁護士に莫大なお金を払ったのを覚えておいていただきたい。彼らは弁護士を大勢用意していたんだ。」
「持ち物はあなたの元から無料で渡されるべきだったのでは?」
「あなたはいきさつをすべてご存知のようですね?」ラトクリフは訊ねた。彼は、質問に答える代りに自分がデビュー・アルバム『ハンティング・ハイ・アンド・ロウ』のプロダクションを、a-haのキャリアを守ったのだと言い返した。彼は、自分の努力への報酬として「ほんの少し」の金を受け取っただけなのだと思っている。
.『ハンティング・ハイ・アンド・ロウ』は世界中で1000万枚以上売れた。 歴史上初めて、ノルウェーがポップスの世界でトップに立ったのだ。a-haが確信していたように。 写真:a-ha |
「『ハンティング・ハイ・アンド・ロウ』のアルバムのプロセスの途中で、ワーナー(アメリカのレコード会社)が、契約から手を引きたいと連絡してきた。彼らは、レコーディングが、彼らに最初に聴かせたものと違っていると思ったんだ。私は彼らに、私がアルバムを守ると言った。彼らは数週間の時間をくれたが、つまり、私が仕事を完了するまでの間a-haはプロセスに関わるべきではないということがはっきりした。それは難しかった。私はバンドの連中にはいつも誠実だったからね。あの時はすべてが賭けだった。彼らが成功するか、それともノルウェーに戻る最初のボートに乗るのか? 私が彼らのためにしたことが何だったのかは、未だに彼らにはわかっていない。彼らは、あの時どれだけ帰国する船に近かったのかを知らないんだ。」
「何をしたのですか?」
「我々は、(プロデューサーの)トニー・マンスフィールドが去った後、新しくレコーディングをしたが、それはレコードのジャケットには書かれていない。私は何曲かでバックコーラスを歌ったし、「ハンティング・ハイ・アンド・ロウ」の曲ではキーボードを弾いた。私には、レコードをワーナーが許容できるようにするために18日間あったし、私は成功したと思う。売り上げを考えてみればね!」
レコードは100万枚以上売れたし、今迄のところバンドのすべての作品で一番売れている。
未だに自らの音楽を創りつづけているこのイギリス人(訳注:ラトクリフ)は、こんな冗談を言う。「多分いつの日か、チャートでハルケットと戦う日が来るだろう。」最後にこう付け加える:「私は、あの頃バンドに何があったかを責めないように、君に曲を書きたいよ。彼らは1985年には新人で、ビジネスがどうなっているのかを知らなかったんだ。」
ラトクリフ側の話を聞いた上で、ポール・ワークター=サヴォイはこう言う。
「ジョンの言うことには同意出来ないね。だが、過去を今再び掘り返すのは無意味だ。彼が、事態がしばらく良くなかったと言ったのは本当だ。録音の予算は尽きていたし俺達には発表出来る曲が7曲しか出来ていなかったから。俺達はその中の5曲をミックスして最終ヴァージョンにした。彼が、何故か俺達には何も言わず残りの2曲をミックスした。」
a-haミュージアムにて
P.A. StenersenがAftenpostenをMoss郊外の彼の家に招いてくれたのは、「ロンドン作戦」のほぼ4年後の事だった。彼はHopkinsと成し遂げたことについて語る時、まだ興奮した。
「僕はここではそんなに重要な人間じゃない。だけど、僕らがした事は重要だ。a-haは今迄のノルウェーのポップ界で最大の存在なんだ。僕らは古い録音が崩壊してしまうのを恐れていた。ヴィンテージ・ワインの話をしているわけじゃないんだ。すぐにそこに行って、すべてをちゃんと出来たら、静かに普通のスタイルで出来たら、素晴らしかったことだろう。」彼は言葉を続けた。
「a-haとラトクリフは10年もの間、仲違いしていた。自分達自身ではどうにも出来なかった。弁護士が儲けるだけだ。だからHopkinsと僕がマネージャーのHarald Wiikと取引をして、ジョン・ラトクリフから妥当な金額でマテリアルを買い取ることが出来たんだ。」
「何をしたのですか?」
「我々は、(プロデューサーの)トニー・マンスフィールドが去った後、新しくレコーディングをしたが、それはレコードのジャケットには書かれていない。私は何曲かでバックコーラスを歌ったし、「ハンティング・ハイ・アンド・ロウ」の曲ではキーボードを弾いた。私には、レコードをワーナーが許容できるようにするために18日間あったし、私は成功したと思う。売り上げを考えてみればね!」
レコードは100万枚以上売れたし、今迄のところバンドのすべての作品で一番売れている。
未だに自らの音楽を創りつづけているこのイギリス人(訳注:ラトクリフ)は、こんな冗談を言う。「多分いつの日か、チャートでハルケットと戦う日が来るだろう。」最後にこう付け加える:「私は、あの頃バンドに何があったかを責めないように、君に曲を書きたいよ。彼らは1985年には新人で、ビジネスがどうなっているのかを知らなかったんだ。」
ラトクリフ側の話を聞いた上で、ポール・ワークター=サヴォイはこう言う。
「ジョンの言うことには同意出来ないね。だが、過去を今再び掘り返すのは無意味だ。彼が、事態がしばらく良くなかったと言ったのは本当だ。録音の予算は尽きていたし俺達には発表出来る曲が7曲しか出来ていなかったから。俺達はその中の5曲をミックスして最終ヴァージョンにした。彼が、何故か俺達には何も言わず残りの2曲をミックスした。」
a-haミュージアムにて
P.A. StenersenがAftenpostenをMoss郊外の彼の家に招いてくれたのは、「ロンドン作戦」のほぼ4年後の事だった。彼はHopkinsと成し遂げたことについて語る時、まだ興奮した。
「僕はここではそんなに重要な人間じゃない。だけど、僕らがした事は重要だ。a-haは今迄のノルウェーのポップ界で最大の存在なんだ。僕らは古い録音が崩壊してしまうのを恐れていた。ヴィンテージ・ワインの話をしているわけじゃないんだ。すぐにそこに行って、すべてをちゃんと出来たら、静かに普通のスタイルで出来たら、素晴らしかったことだろう。」彼は言葉を続けた。
「a-haとラトクリフは10年もの間、仲違いしていた。自分達自身ではどうにも出来なかった。弁護士が儲けるだけだ。だからHopkinsと僕がマネージャーのHarald Wiikと取引をして、ジョン・ラトクリフから妥当な金額でマテリアルを買い取ることが出来たんだ。」
1981年、ポール・ワークター=サヴォイ(当時20歳)は、有名になる方法を計画していた。 ワークター=サヴォイはツアーにトレイラーを使うか、ルーフラックを使うだけにすればいいのか 自分自身と論じ合っていた。 写真:個人蔵 |
【特別付録】上の写真のノートの内容 :
1. bilen & tilhenger? eller grind på taket Vi må arrangere og rask
(English: 1. car & trailer? or grind rooftop We must arrange and fast)
・・・見えてるとこだけですが・・・多分あってると思います^^;
Wiikは認める。「この件のすべてにおいて、バンド全体はP.A. Stenersenに遅れを取っていました。彼の熱意と、物事を成し遂げる能力が、この結末をもたらしたのです。中立で、マテリアルの保存だけに関わっている人間では、こんなことは成し得なかったでしょう。」
StenersenはAftenpostenに彼の個人の「a-ha博物館」を見せてくれた。1階の棚にはきちんと並べられた何メートルにも及ぶa-haのレコーディングが並んでいる。『スカウンドレル・デイズ』はひとつでは足りない。コレクターなら少なくとも、リリースされたレコードのどれも一枚以上所有していなければならない。博物館のコレクションは家中広がっている。ガレージの上の物置に至るまで、a-haに関する変わったもので埋め尽くされている。それらは客が立ち寄らないショップの余剰在庫から集められたものだ。
「見てください、これはとてもレアなシングルです。1000枚しかプレスされなかったのです。これは予備のストックなんです。」
「誰かに気が狂っていると言われたら、どう言い返しますか?」
「確かに、そうだよ!」
呼び鈴が鳴った。彼がドアを開くと、外から配達員が言った「Stenersenさん、お荷物のお届けです」。 P.A. Stenersenには、中身はわかっていたが、それでも誕生日プレゼントを開く子供のようだった。それは『ハンティング・ハイ・アンド・ロウ』の4枚のCDとDVDからなる「スーパー・デラックス」ヴァージョンのテスト盤だ。発売日には3か月ある。
Stenersenは大声では言わない。だがこれらの録音の多くの曲は、彼が2011年にロンドンで救出したものなのだ。
ロッキング・イン・リオ再び
今週ポール・ワークター=サヴォイ、マグネ・フルホルメン、そしてモートン・ハルケットはDrammenのUnion Sceneでのリハーサルのために集まる。2010年12月、オスロ・スペクトラムでの「解散」からほぼ5年、a-haは戻って来たのだ。彼らの最初のカムバック・コンサートは9月24日のブエノスアイレスだ。その3日後、ロック・イン・リオに出演する。1991年に彼らが198,000人のオーディエンスの前で演奏した、同じフェスティヴァルだ。その時作られた、有料オーディエンスの世界記録は、12年後まで破られなかった。
ワークター=サヴォイの初期の自画像。彼のノートより。 写真:個人蔵 (訳注:上のほうにScoundrel Daysの歌詞が書いてありますね) |
「見てください、これはとてもレアなシングルです。1000枚しかプレスされなかったのです。これは予備のストックなんです。」
「誰かに気が狂っていると言われたら、どう言い返しますか?」
「確かに、そうだよ!」
呼び鈴が鳴った。彼がドアを開くと、外から配達員が言った「Stenersenさん、お荷物のお届けです」。 P.A. Stenersenには、中身はわかっていたが、それでも誕生日プレゼントを開く子供のようだった。それは『ハンティング・ハイ・アンド・ロウ』の4枚のCDとDVDからなる「スーパー・デラックス」ヴァージョンのテスト盤だ。発売日には3か月ある。
Stenersenは大声では言わない。だがこれらの録音の多くの曲は、彼が2011年にロンドンで救出したものなのだ。
ロッキング・イン・リオ再び
今週ポール・ワークター=サヴォイ、マグネ・フルホルメン、そしてモートン・ハルケットはDrammenのUnion Sceneでのリハーサルのために集まる。2010年12月、オスロ・スペクトラムでの「解散」からほぼ5年、a-haは戻って来たのだ。彼らの最初のカムバック・コンサートは9月24日のブエノスアイレスだ。その3日後、ロック・イン・リオに出演する。1991年に彼らが198,000人のオーディエンスの前で演奏した、同じフェスティヴァルだ。その時作られた、有料オーディエンスの世界記録は、12年後まで破られなかった。
左からポール・ワークター=サヴォイ、モートン・ハルケット、マグネ・フルホルメン。
写真: BERIT ROALD, NTB/SCANPIX
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「楽しみにしているのと同じぐらい怖いよ。俺達はステージに上がる前は絶対崖っぷちな気分だろう。だけど、リオのオーディエンスはとってもフレンドリーなのはわかってるから。」ワークター=サヴォイは言う。
Cast in Steelツアーのスケジュールは、今のところコンサート35回だ。2016年のノルウェーも含んで何度か追加になるだろう。場所も日程もまだ決まってはいない。彼らの30年のキャリアと10枚目のスタジオ・アルバムと関連して、ポール・ワークター=サヴォイ、モートン・ハルケット、マグネ・フルホルメンとHarald Wiikは2年間の共働の契約を交わした。
音楽が何かを失った時
ワークター=サヴォイは、彼の言うところのa-haの「バンドのポリシー」が気に入っているだけではない。
「2年前、モートンが俺のニュー・ヨークのスタジオに来て、俺がレコーディングしたいと思っていた曲を10~12曲歌ったんだ。それは実際自分にとってはこのレコードの最高の部分だった。俺達は誰にも知られることなく、スタジオに入った。締切とかそういうことも何も関係なく。それは、つまり、ロンドン時代に戻ったようで、何の義務も無かったんだ。」
「誰もあなた方が一緒のところを見かけなかったんですか?何かが起こっているぞって知ったりということもなく?」
「ああ。マグネは知っていたけど、彼は他の事で忙しかったから。」ワークター=サヴォイは言う。一年後、古い機械はスピードを上げていた。レコーディング、話し合い、ミーティング―そして、お互いの強いエゴ。
「そういう最低限の始まり方が、好きなんだ。バンドには沢山の取り決めがあって、それが音楽にもたらすものが、好きじゃないんだ。俺の耳には、何かが失われているように聴こえる。始まりの時には簡単な事だったのに…。」彼は、続ける言葉を探した。「バックグラウンドのノイズみたいなものなんだ。」
「何がノイズを起こすんです?」
「えぇと… 曲があって、ラフなアイディアだけがある時、仕上げる必要はあるんだけど、出来上がりが間違ってしまう可能性も高いんだ。そして、だいたい、間違うって決まってる。」
「どれぐらいの割合ですか? 10のうち9ぐらいですか?」
「そうだ。そういうものなんだ。」
厳しいレコーディング
「その頃、手帳の時代が懐かしかったですか? もっと「バンドのポリシー」が少なかった頃が」
「ポリシーとかそういう事だけじゃなくて、起こることすべて、あらゆる事の問題なんだ。パズル全体を作るには、ぴったりのピースが沢山必要だろう? だから、自分の正気を守るために、俺はいつでも、楽曲が作曲された時の事を考えるんだ。その曲が初めて自分の頭に響いた瞬間のことを。俺達のファースト・アルバムのレコーディングも、こうだったと思う。ずっと座って古いものに耳を傾け続けたりはしないけど、いつでも曲が聞こえてきて、その曲にサプライズがあったら、よくこう思う。『あれ、この曲こんな風になったんだっけ?』ってね。」
「その曲を書いたときの感じを覚えているからですね?」
「ああ。頭の中にあるアレンジで聞こえて、それからかなり違った形で出て来る。だけど、それがそういうものなんだ。」
「このアルバムのレコーディングは難しかったですか?」
「再活動の時の最初のアルバム『遙かなる空と大地(マイナー・アース、メジャー・スカイ 2000年)』は実はかなりうまく行った。その後のは、全部が、厳しい。」
「で、これも?」
「これも、かなり厳しかった。 でもまあ俺達はそういうのにもだいぶ慣れたからね。」
「結果についてはどう思いますか?」
「いや、えっと、これをa-haと捉えるのは、とても難しいんだ。何故なら、俺にとっては、三つの異なったもののようで、それがa-haと呼ばれているから。だいたいこういう風になるし、多くのバンドだって、そうなる。ただ、同じスタジオに入って、リアルタイムで同じ曲の仕事をする感覚が、懐かしいな。」
「このレコードでは、そうしなかったんですか?」
「う~ん、そうだね、そうしなかった。」
「最初の三枚のアルバムをもう一度聴いて、同じように思いますか?」
「いいや。あの頃は厳密なレコーディングの予算があって、従わなくてはならなかったし、足りるといいなと思っていた。今は、すべてが違うし、ここでちょっと録音して、あそこでまたちょっと、っていう風に出来る。作業の間、同じひとつのメディアをずっと使わなくても仕事は出来る。」
「三人のアーティストが、三つの面から貢献して―そういう理解で正しいでしょうか。ちょっと話題がそれたようですが。」
「それたのはね、このレコードがそうだからだと思うよ。もう一度ちゃんと聴く前には、ちょっと休んでからじゃないと無理だろうな。これは、二か月間参加して、仕事をして、終わってっていうようなものじゃないんだ。沢山のヴァージョンを聴いて、色々なものを聴いて、それで最後に『OK、これで終わりでいいよね、本当に?』って考える。10回前のヴァージョンのほうがクールだったんじゃないか、それともこれからやってみたらもっと良くなるんじゃないか?」
「他の人が結果について色々言うのはウザいですか?」
「いや、ほんとに、そんなことないよ。」
「以前はそうでした?」
「そんなことない。だって、普通、ある曲が鳥肌モノだったとしたら、それがヒットするか、少なくとも成功なわけだから。 そうだな、まあ、それが本当に正しいというわけじゃないけど、でも、ヒットだろうがそうじゃなかろうが、満足したわけでしょ、ゾクゾクしたんだったら。」
「今回は、何度もゾクゾクしました?」
「何曲かでは。自分が書いた曲には満足してる。でも、もし自分たちが終わった曲で自分がゾクゾクしたとしたら? さっきも言ったけど、そういうのは… 10年後に訊いてくれないかな。」
ノートからニュー・アルバムへ
ニュー・アルバム『Cast in Steel』の12曲の中の1曲には、特別なストーリーがある。ジョン・ラトクリフとランデヴー・スタジオの時代、そしてP.A. Stenersenの2011年ロンドン旅行と直接の関係がある。何故なら、ポール・ワークター=サヴォイが、古いノートを取り戻し、忘れていた曲を思い出したのだ。1984年に歌詞が書かれた「She's Humming a Tune」だ。
「ノートが戻って来て、テキストを見て、思い出したんだ。『そうだ、この曲だ。これはクールだ。』 それから、この曲を他でもない今レコーディングするのはクールだって考えた。」ポール・ワークター=サヴォイは語る。
書かれてから31年後、そしてロンドンで救出されてから4年後、この曲は、a-haのカムバック・アルバムの9曲目になった。
英訳: Aasmund Willersrud and Stephen Petrie
*************
かなり時間が経ってしまいました…。
これ、Cast in Steel発売前に出たインタビューですからねえ。色々あって遅くなってしまいました。待っていた方、すみません!
この記事、内容としては色々考えさせられるものがあり、重要です。
(思うところある方は、コメントどうぞ。返事するかどうかは内容によりますが)
P.A.には実際会ったことがあるのですが、「彼のa-haに対する想い」を生で聞いて「そうか!ノルウェー人の、しかも男性ファンにとって、彼らはそういう存在(尊敬と誇りの対象)なのか!」と感動したのですが、それが2010年の事で、その後こんなことがあり、そして先日のHHL30につながったわけですから・・・ホント、人生何がどこで起こるか、わかったもんじゃありません^^;(私も含め)
Cast in Steelツアーのスケジュールは、今のところコンサート35回だ。2016年のノルウェーも含んで何度か追加になるだろう。場所も日程もまだ決まってはいない。彼らの30年のキャリアと10枚目のスタジオ・アルバムと関連して、ポール・ワークター=サヴォイ、モートン・ハルケット、マグネ・フルホルメンとHarald Wiikは2年間の共働の契約を交わした。
音楽が何かを失った時
ワークター=サヴォイは、彼の言うところのa-haの「バンドのポリシー」が気に入っているだけではない。
「2年前、モートンが俺のニュー・ヨークのスタジオに来て、俺がレコーディングしたいと思っていた曲を10~12曲歌ったんだ。それは実際自分にとってはこのレコードの最高の部分だった。俺達は誰にも知られることなく、スタジオに入った。締切とかそういうことも何も関係なく。それは、つまり、ロンドン時代に戻ったようで、何の義務も無かったんだ。」
「誰もあなた方が一緒のところを見かけなかったんですか?何かが起こっているぞって知ったりということもなく?」
「ああ。マグネは知っていたけど、彼は他の事で忙しかったから。」ワークター=サヴォイは言う。一年後、古い機械はスピードを上げていた。レコーディング、話し合い、ミーティング―そして、お互いの強いエゴ。
「そういう最低限の始まり方が、好きなんだ。バンドには沢山の取り決めがあって、それが音楽にもたらすものが、好きじゃないんだ。俺の耳には、何かが失われているように聴こえる。始まりの時には簡単な事だったのに…。」彼は、続ける言葉を探した。「バックグラウンドのノイズみたいなものなんだ。」
「何がノイズを起こすんです?」
「えぇと… 曲があって、ラフなアイディアだけがある時、仕上げる必要はあるんだけど、出来上がりが間違ってしまう可能性も高いんだ。そして、だいたい、間違うって決まってる。」
「どれぐらいの割合ですか? 10のうち9ぐらいですか?」
「そうだ。そういうものなんだ。」
厳しいレコーディング
「その頃、手帳の時代が懐かしかったですか? もっと「バンドのポリシー」が少なかった頃が」
「ポリシーとかそういう事だけじゃなくて、起こることすべて、あらゆる事の問題なんだ。パズル全体を作るには、ぴったりのピースが沢山必要だろう? だから、自分の正気を守るために、俺はいつでも、楽曲が作曲された時の事を考えるんだ。その曲が初めて自分の頭に響いた瞬間のことを。俺達のファースト・アルバムのレコーディングも、こうだったと思う。ずっと座って古いものに耳を傾け続けたりはしないけど、いつでも曲が聞こえてきて、その曲にサプライズがあったら、よくこう思う。『あれ、この曲こんな風になったんだっけ?』ってね。」
1年のほとんどを、ポール・ワークター=サヴォイと家族はニュー・ヨークのブルックリンにある自宅で過ごす。 この夏はオスロ Vinderenにある屋敷で多くの時間を過ごした。 写真:Tor Stenersen |
「ああ。頭の中にあるアレンジで聞こえて、それからかなり違った形で出て来る。だけど、それがそういうものなんだ。」
「このアルバムのレコーディングは難しかったですか?」
「再活動の時の最初のアルバム『遙かなる空と大地(マイナー・アース、メジャー・スカイ 2000年)』は実はかなりうまく行った。その後のは、全部が、厳しい。」
「で、これも?」
「これも、かなり厳しかった。 でもまあ俺達はそういうのにもだいぶ慣れたからね。」
「結果についてはどう思いますか?」
「いや、えっと、これをa-haと捉えるのは、とても難しいんだ。何故なら、俺にとっては、三つの異なったもののようで、それがa-haと呼ばれているから。だいたいこういう風になるし、多くのバンドだって、そうなる。ただ、同じスタジオに入って、リアルタイムで同じ曲の仕事をする感覚が、懐かしいな。」
「このレコードでは、そうしなかったんですか?」
「う~ん、そうだね、そうしなかった。」
「最初の三枚のアルバムをもう一度聴いて、同じように思いますか?」
「いいや。あの頃は厳密なレコーディングの予算があって、従わなくてはならなかったし、足りるといいなと思っていた。今は、すべてが違うし、ここでちょっと録音して、あそこでまたちょっと、っていう風に出来る。作業の間、同じひとつのメディアをずっと使わなくても仕事は出来る。」
「テイク・オン・ミー」の歌詞。テリー・スレイターとジョン・ラトクリフのT.J.Management Limitedの便箋に書かれている。 写真:個人蔵 |
「三人のアーティストが、三つの面から貢献して―そういう理解で正しいでしょうか。ちょっと話題がそれたようですが。」
「それたのはね、このレコードがそうだからだと思うよ。もう一度ちゃんと聴く前には、ちょっと休んでからじゃないと無理だろうな。これは、二か月間参加して、仕事をして、終わってっていうようなものじゃないんだ。沢山のヴァージョンを聴いて、色々なものを聴いて、それで最後に『OK、これで終わりでいいよね、本当に?』って考える。10回前のヴァージョンのほうがクールだったんじゃないか、それともこれからやってみたらもっと良くなるんじゃないか?」
「他の人が結果について色々言うのはウザいですか?」
「いや、ほんとに、そんなことないよ。」
「以前はそうでした?」
「そんなことない。だって、普通、ある曲が鳥肌モノだったとしたら、それがヒットするか、少なくとも成功なわけだから。 そうだな、まあ、それが本当に正しいというわけじゃないけど、でも、ヒットだろうがそうじゃなかろうが、満足したわけでしょ、ゾクゾクしたんだったら。」
「今回は、何度もゾクゾクしました?」
「何曲かでは。自分が書いた曲には満足してる。でも、もし自分たちが終わった曲で自分がゾクゾクしたとしたら? さっきも言ったけど、そういうのは… 10年後に訊いてくれないかな。」
ノートからニュー・アルバムへ
ニュー・アルバム『Cast in Steel』の12曲の中の1曲には、特別なストーリーがある。ジョン・ラトクリフとランデヴー・スタジオの時代、そしてP.A. Stenersenの2011年ロンドン旅行と直接の関係がある。何故なら、ポール・ワークター=サヴォイが、古いノートを取り戻し、忘れていた曲を思い出したのだ。1984年に歌詞が書かれた「She's Humming a Tune」だ。
「ノートが戻って来て、テキストを見て、思い出したんだ。『そうだ、この曲だ。これはクールだ。』 それから、この曲を他でもない今レコーディングするのはクールだって考えた。」ポール・ワークター=サヴォイは語る。
リストの12番の曲に注目: 書かれてから30年後に、「She's Humming a Tune」はa-haの新譜で完成することとなった。 ファンのP.A. Stenersenに感謝。 写真:個人蔵 |
英訳: Aasmund Willersrud and Stephen Petrie
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かなり時間が経ってしまいました…。
これ、Cast in Steel発売前に出たインタビューですからねえ。色々あって遅くなってしまいました。待っていた方、すみません!
この記事、内容としては色々考えさせられるものがあり、重要です。
(思うところある方は、コメントどうぞ。返事するかどうかは内容によりますが)
P.A.には実際会ったことがあるのですが、「彼のa-haに対する想い」を生で聞いて「そうか!ノルウェー人の、しかも男性ファンにとって、彼らはそういう存在(尊敬と誇りの対象)なのか!」と感動したのですが、それが2010年の事で、その後こんなことがあり、そして先日のHHL30につながったわけですから・・・ホント、人生何がどこで起こるか、わかったもんじゃありません^^;(私も含め)
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